今回は、奈良公園の玄関口、近鉄奈良駅の広場に立つ「行基(ぎょうき)菩薩像」についてご紹介します。柔和な表情で行き交う人々を見守る行基菩薩は、なぜここに?誰が設置した?行基ってどんな人?詳しくまとめました!
「行基菩薩像」はなぜ近鉄奈良駅にある?設置したのは大人気市長!
近鉄奈良駅前の広場の噴水に立つ「行基菩薩像」。東大寺や春日大社、興福寺などのいわゆる奈良公園エリアを訪れたことのある方なら、実際に目にしたことのある方も多いのではないでしょうか?
行基菩薩像がこの場所に建てられたのは1970年。当時の奈良市長だった鍵田忠三郎(かぎた ちゅうざぶろう)さん(1922~1994)によって設置されました。
この行基菩薩像、よく見ると駅広場に対して正面ではなく、少しななめの方向を向いて建てられていることに気がつきます。実は、行基がその建立に深く関わった「東大寺の大仏さま」を見るように建てられています。
ちなみに鍵田元市長といえば、他にも奈良東山の高円山での奈良大文字の創始、中国西安市との友好都市提携、地震雲の研究など、ユニークな施策を次々と実現し、市民から絶大な人気を誇っていた方だそうです。
そんな鍵田元市長は、行基を研究するグループの会長を務めていたこともある、大の行基ファン。地元で行基さんと呼ばれ親しまれている行基菩薩像をシンボルに、街のさらなる活性化を実現したいという思いが込められているようです。
行基さんが見ている先が、深いつながりのある東大寺というのが、なんだか粋ですよね。
現在の「行基菩薩像」は3代目!行基さながらの波乱万丈な歩みとは
実は、現在設置されている行基菩薩像は1970年当時からのものではなく、すでに3代目。
初代の行基菩薩像は、現在のブロンズ像ではなく、伝統的な赤膚焼(あかはだやき)という焼き物で作られていました。赤膚焼自体も行基と関係の深い土師(はじ)氏の伝統を汲んでいることから選ばれたようです。
制作したのは、奈良市にある窯元「大塩正人(まさんど)窯」の七代目、故・大塩正人(正治)さん(正人窯では、代々窯を継いだ人が「正人」を名乗る)。この大きさの像を焼き物でつくるというのは大変難しいらしく、約2年かけてようやく完成したそうです。
そんな初代「行基菩薩像」ですが、なんと心ない人によるいたずらで頭部を壊されてしまいます。
そんな…あまりに悲しい結末。そもそも「菩薩」と呼ばれる像を壊すなんて…。
でも、これで終わりはしません。
2代目がつくられることになるのですが、こちらも同じく正治さんによる制作(1986年)。ところが今度は雨風による傷みが激しくなり、1995年には3代目の制作が始まります。これまでの経緯を受けて、3代目は雨風にも強いブロンズ像として生まれ変わることに。奈良市の彫刻家、故・中西重久さんによる制作です。
強固なブロンズ像なら一安心ですが、同時に、初代・2代目の赤膚焼き「行基菩薩像」をもう見られないのは寂しいと思いきや…
なんと、初代の像がつくられたとき、実は同じ型を使った像が全部で3体作られていました。本来残りの2体は壊れた場合の予備として作られたものでしたが、せっかくの像をスペアとしてしまっておくのはもったいないと考えた鍵本元市長。この2体は行基ゆかりの寺に寄贈されていました。
初代・赤膚焼き「行基菩薩像」は今も見られる⁉~「霊山寺」「九品寺」~
初代と同じ型で作られた2体の行基菩薩像が贈られたのは、奈良市の霊山(りょうせん)寺と、奈良県御所市の九品(くほん)寺。いずれも、行基菩薩ゆかりのお寺です。ちなみに、この2体の像も、近鉄奈良駅前の「行基菩薩像」と同じく、東大寺の大仏さまの方角を向いて立っています。
霊山寺(りょうせんじ)の行基菩薩像
境内の八体仏霊場の横に祀られています。外に立っているので、霊山寺を訪れればいつでも見ることができます。ちなみに、霊山寺の大堂を建立したのが行基菩薩であることから、この像の他に「行基菩薩坐像」も安置されています。
九品寺(くほんじ)の行基菩薩像
行基が開創したと伝わるお寺。赤膚焼きの行基菩薩像は、本堂向かって左に建っています。実に1800体あるという千体地蔵尊と境内周辺に咲く彼岸花が有名なお寺です。
近鉄奈良駅前ではもう見られない、赤膚焼きの「行基菩薩像」。今もこの2つのお寺で大切にされているので、ぜひ訪れてみてくださいね。
そもそも「行基」って何者?大仏との関わりは?庶民への仏教布教と社会事業に尽力、当時の日本で一番偉いお坊さん!
1200年以上経ってなお、多くの人々に愛され続ける行基菩薩。一体どんな方だったのでしょう?
行基は、飛鳥・奈良時代を生きた高僧です。668年、現在の大阪府堺市にあたる河内国大鳥郡(かわちのくにおおとりぐん)に、父・高志才智(こしのさいち)、母・蜂田古爾比売(はちたこにのひめ)という百済系渡来人の家に生まれ(高志氏は百済から渡来した王仁(わに)氏の子孫)、749年にこの世を去るまで、なんとこの時代に82歳まで長生きしています。
実在の人物ながら、「行基菩薩」と尊ばれるまでにいたった背景には、当時の仏教の在り方が大きく関係しているようです。奈良時代の仏教は、政治を行うためのもので、一般民衆のためのものではありませんでした。
そんな中、行基は、仏教本来の「広く民衆を救う」という姿を実現するべく、身分を問わず広く民衆に仏法を説いてまわり、また社会事業にも力を入れ、灌漑施設を作ったり、川に橋を架けたり、井戸を掘ったりと、民を助けることに精力を尽くしたのです。
禁じられている民への布教を行ったことで朝廷からは弾圧を受けましたが、民衆からは「行基菩薩」と崇敬され、絶大な支持を得ます。
最終的に朝廷も認めざるを得なくなり、743年、聖武天皇は行基を「盧舎那仏(いわゆる奈良の大仏)」造立の実質的な責任者にします。745年、78歳のときには僧侶としての最高位「大僧正」に日本で初めて任命され、大仏造立という大事業で見事民衆をまとめあげ、大きな役割を果たしたのでした。
生き仏として愛された高僧「行基菩薩像」まとめ
- 現在、近鉄奈良駅前にある行基菩薩像は3代目。
- 1970年、当時の奈良市長だった鍵田忠三郎氏が設置したのがはじまり。
- 像のモデルである行基菩薩は、民衆への仏教布教と社会事業による功績から、実在の人物ながら「行基菩薩」と崇敬された、奈良時代の高僧。
- 東大寺の大仏建立に大きな役割を果たしたことから、近鉄奈良駅前・霊山寺・九品寺の「行基菩薩像」はいずれも東大寺の方角を向いている。
弾圧をもろともせず、自分の信念に従って人々や社会のために尽力し続けた行基さん。今でも愛され続ける理由がよく分かりますね。
ということで、今回は「行基菩薩像」の歴史がわかるお話でした。最後までお読みいただきありがとうございまいた!
奈良を訪れた際には、このありがたい優しいお顔の「行基菩薩像」をぜひ見てみてくださいね~!
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