今回は、飛鳥・奈良時代の政治家「藤原不比等(ふひと)」氏について紹介します。自身の功績も去ることながら、父は中臣鎌足、娘は光明皇后、10代先には藤原道長と超有名人ばかり!名門貴族・藤原氏のルーツがわかるようになる、華麗なる「藤原不比等」の家系図を詳しく見ていきましょう!
「藤原不比等」のプロフィールを紹介!読み方は?何時代に、何をした人物?死因は?
生没年は659~720年。飛鳥・奈良時代を生きた法律学者・政治家です。現在の奈良県・明日香村で生まれ、幼少期は田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)によって山科(やましな)の地で育てられたと伝わっています。
「藤原不比等」と書いて「ふじわら の ふひと」と読みます。めずらしい名前ですが、とても優秀な人物だけに「等しく比べる者がいない」ほど優れていることを表しているとも言われています。一字で「史(ふひと)」と書かれることも。
父親は、あの大化の改新で中心的な働きをした中臣鎌足(なかとみ の かまたり)。父・鎌足が晩年に朝廷から賜った「藤原」の姓を不比等が受け継ぎました。
政治家として、大納言・右大臣を歴任し、大宝律令の立案や平城京遷都などにも尽力した人物です。720年に63(62とも)歳で亡くなりますが、死因については中毒説や病死などあり謎が多いようです。
ちなみに、初めて「日本」という国号が使用されたのは「大宝律令」なんだとか!
今の私たちにとっては当たり前の「日本」という名前も、この時代から脈々と受け継がれてきたのかと思うと、なんだか感慨深いものがありますね。
藤原不比等の娘は皇后?子供の名前は?わかりやすい家系図その1!
不比等の家系図には、押さえておくべき重要人物がとにかく盛りだくさん。
まずは、天皇家とのつながりが色濃く表れている不比等の娘たちを家系図で見てみましょう。
不比等の娘で天皇夫人となったのは長女の宮子(みやこ)と3女の安宿媛(あすかひめ/あすかべひめ)の2人。
宮子は、697年に文武(もんむ)天皇の夫人となり、のちの聖武天皇である首皇子(おびとのみこ)を生んだ人物です。
安宿媛(あすかひめ/あすかべひめ)は、不比等と県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)との間に生まれた子で、のちの聖武天皇である首皇子(おびとのみこ)の妃となりました。
皇族以外で初めて皇后(天皇の正妻)となった人で、光明子(こうみょうし)、光明皇后の名でも知られています。
光明皇后は、疫病の治療や孤児の救済に尽力し、施薬院(せやくいん)や悲田院(ひでんいん)を作った人物としても有名。東大寺や国分寺の創建にも関わっているとされ、政治的にも社会的にも大きな功績を残しています。
この2人の娘を通じて不比等は皇室と二重の姻戚関係を結び、天皇家の外戚となってその地位を強固なものへと押し上げていった、というわけです。
ちなみに、不比等の娘はこの2人以外にも3人いて、それぞれ長屋王(ながやおう)、橘諸兄(たちばなのもろえ)、大伴古慈斐(おおとものこしび)といった有力な皇族・貴族に嫁いでいるようです。
う~ん、娘たちの嫁ぎ先、豪華すぎます!不比等さん、相当やり手の方だったのでしょう。
そしていろいろな目論見があろう中、天皇家に嫁ぎ、これだけの功績を残した光明皇后、きっとお名前のとおり魅力あふれる眩しいお方だったのでしょうね。
藤原不比等の家系図その2!10代先にはあの藤原道長!息子たちの藤原四家って?
続いて、息子側も詳しく見ていきましょう。
藤原不比等には息子が4人、長男から武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)です。この男子4人も不比等と同様、政界に進出し活躍した人物です。
それぞれ武智麻呂が南家(なんけ)、房前が北家(ほっけ)、宇合が式家(しきけ)、麻呂が京家(きょうけ)と分かれ、これを藤原四家(ふじわらよんけ)と呼びます。
4人はそれぞれ高官となり政治の中枢を担っていましたが、天平9年(737)頃に流行した天然痘でなんと全員が命を落とすことに。
その結果、藤原氏は一時衰退するも再び隆盛。最も栄えたのは房前から始まった北家で、房前から見て9代先にいるのが、あの「藤原道長」です。平安時代に摂関政治で絶大な権力を誇り藤原氏の全盛期を築いた人物です。
道長の頃の印象が強く、雅なイメージのある藤原氏ですが、その源流は不比等らの時代にあったんですね。
※摂関政治とは…天皇に代わって、摂政・関白が主導権を持つ政治のこと
藤原不比等の家系図まとめ!&ゆかりの地ご紹介(興福寺・法華寺)
さて、名門貴族・藤原氏の源流がうかがえる「藤原不比等にまつわる家系図」、いかがでしたでしょうか。
詳しく家系図を見ていくと、複雑でわかりにくい部分もあるかもしれません。この時代は一夫多妻が一般的で、さらに異母兄弟の結婚は認められていたそうですから、そういった今との違いも頭に入れて家系図を見ていくと理解しやすくなるかもしれませんね。
最後に、藤原不比等ゆかりの地をいくつかご紹介しておきたいと思います。
ぜひ直接訪れて、藤原不比等が生きた時代に思いを馳せてみてくださいね!
① 興福寺(こうふくじ)
710年の平城京遷都の際に、藤原不比等が氏寺の山階寺(やましなでら)を移転、改称したのが興福寺です。
阿修羅像を含む数々の有名仏像を多く安置する、奈良を代表する寺院の一つ。
アクセス:奈良県奈良市、近鉄奈良駅から徒歩5分
② 法華寺(ほっけじ)
藤原不比等の邸宅を娘である光明皇后が総国分尼寺として建立したのが法華寺です。
大和三門跡の1つ。本尊で国宝の十一面観音菩薩立像は、光明皇后の姿を写したものとされています。
アクセス:奈良県奈良市、近鉄大和西大寺駅からバスで約14分、バス停から徒歩3分
ということで、藤原不比等の家系図まとめ、いかがでしたでしょうか?「藤原氏」の源流を知ると、時代劇や歴史もの作品も一層おもしろくなりそうですね。
最後までお読みいただきありがとうございました。!
コメント